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『点にダイブする』@ Kyoto Experiment の批評文 

出典 WebマガジンREALKYOTO

集団と個、多声と単声

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2018

 

抜粋

しまぬき・たいすけ

 

集団が発する多くの声と、個が発する単一の声。たぶんその両方が重要で、両方が接し合う界面の厚みを少しずつ広げていくことこそが、自由を得る術なのではないかと筆者は思う。その意味で、今回のKEXで、唯一観客参加型の試みを行ったFloating Bottle Projectについて最後に触れておきたい。

 

3つにグループ分けされた参加者が、「だるまさんが転んだ」を模したゲームで競い合う『Dive into the point 点にダイブする』は、冒頭で手塚とペレラが語るように、近代化の過程と、そこで起きる支配構造の強化をなぞる実験として構想されている。ルールに従ってゲームに参加しても、見学に徹しても、途中離脱しても許されるのは実験だからこそだが、それぞれが選んだ地点から見えるものは大きく変わる。

外から俯瞰して見えるのは集団心理の滑稽さや、作品そのものの退屈さかもしれないし、内側に留まって得られる近視眼的な体験と疲労は、支配されることの不快と快をもたらすかもしれない。あるいは内/外という二分法ではなく、もう少し広いグラデーションのなかで気楽な模索をすることもできる。筆者自身は、得点を頑張って求めるのも、逆らって下位グループに転落するのも嫌だったので、スタート地点でのらりくらりやりすごす方法を探ることに専心してみたのだが、監視するリーダーやサブリーダーの視界から逃れるために他のプレイヤーを盾にしてみたり、ときに露骨に命令に従ってみなかったりするのは楽しかった(最終的には下位グループに落とされてしまったけれど。そうなるとリーダーたちの視界にそもそも入らなくなるので、底辺から這い上がるのはきわめて困難になってしまう。社会の底辺で生きる弱者に、権力がサービスを与える理由なんてないのだ)。

 

これはあくまで実験の楽しみ方の一つにすぎないが、そこから発見することもある。劇場において、作品が立ち上がる舞台とオーディエンスが鑑賞する客席の関係はおおむね固定的だが、もしかすると自分が座る客席の位置やあり方を選ぶ自由だってあるかもしれない。そのことで被る益も不利益も甘んじて受け入れなければならないとすれば、それは昨今流行の「自己責任論」とも重なってくるだろう。

 

しかし、ともあれこれは「実験(experiment)」なのだ。大人であること、子どもであること。妻であること、夫であること。母であること、父であること。家族であること、他人であること。富めること、貧しいこと。当事者であること、「当事者性がない」と言われたりすること。そういった諸々の集団的な規範から離れたときの可能性を探る実験の精神は、KYOTO EXPERIMENTの全体を貫いている。

 

しまぬき・たいすけ

美術ライター&編集者。1980年生まれ。京都&東京在住。『CINRA.net』『美術手帖』などでインタビュー記事、コラムなどを執筆するほか、編集も行う。

http://realkyoto.jp/review/kex2018_shimanuki/?fbclid=IwAR2Ar2v3lWVb95nO9vc7iRE8P1xIspGCVnENdAAV6atg8YZfOS9E8SgAn-Q

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