ソ・ヨンランによるFloating Bottle Projectの総括
1)このプロジェクトをやる以前行っていた民俗芸能の調査について
手塚夏子、ヴェヌーリ・ペレラ、そして私(ソ・ヨンラン)は、宗教、信仰を合わせた儀式と民俗、伝統の踊りについて共通した関心を持っていた。
私自身もソウルの村の儀式、或いは黄海道、南海岸、釜山、済州島の大きな儀式などを見て、インタビューをしてきた。それらは『私の信仰を告白します』と『地の神は不完全に昇る』という公演に部分的に込められている。
2)スリランカでのリサーチについて
スリランカで、民俗儀式、仮面劇、民俗の踊りなどをリサーチした。オランダとイギリスによるスリランカ植民統治時代に、収集されたり制限された伝統の踊りと儀式や、舞台で公演しながら変化を遂げてきた点などについて意見を交わした。
植民統治時代以降、脱植民地域や国家では、過去についての強い反応(排除しながら同時に踏襲する)と、理念の相続があった。その土地の力が持っていた「特定の人種・民族の正体性についての解析」や「政治的表現colonial idiom」にそのまま従うものだった。西洋の国家主義に従って、韓国民族の素晴らしさを自慢する民族主義が浮上したように、スリランカでは仏教を名目としたシンハラ仏教国家主義が誕生した。スリランカの仏教性が強調され、数世紀の間共存してきたイスラム教徒に向いた民族間の緊張を体験した。
3)手塚のインストラクションを読んで感じたこと
夏子はアーカイブボックスを通じて、似ているようで全く違う社会的変化を経たアジア地域のアーティストに、彼女の昔からの質問を投げかけた。その質問は3人が共通して関心を持っていた「伝統」から眺めてみると、おのずと見えてくる20世紀の社会の変化についてだった。彼女の手紙の多くの部分に共感した。彼女が共有した質問と方法は、過去の二つの創作活動で行われていたものでもあった。そこでもう一度、その質問と方法に更に従ってみながら、私はジャンプをしてみた。そして、後に知った韓国の歴史的、政治的状況を創作活動に反映した。
4)STスポットでのパフォーマンスについて
私がアーカイブボックスとヴェヌーリの手紙をもらった時、韓国でろうそく革命が起こり、政権が変わった後だった。大きな社会の地殻変動に因って太極旗と共に現れた韓国の極右、長い間衝突してきた理念の歴史的根幹が鮮明に表れたようだった。広場に登場した星条旗、太極旗、イスラエルの国旗と、それらを掲げることになった理念、信念、信仰などを考えながら「アンケート」を行った。
当時の活動を顧みると「伝統に対する関心」という部分から始まり、「西洋式近代化、及び現代化で作られた伝統」だけでなく「近代化、及び現代化を経て誕生した国家が創り上げた、ある市民というアイデンティティー」についての話をしていた。例えばヴェヌーリの活動は特定のパスポートによって(植民地時代の人種と皮膚の色による差別が脱植民地時代に延長されたような)特定国家の個人に消された国際的差別を露わにした。私の活動の場合、西洋式近代化、及び現代化以降に、全世界に植え付けられた「国家と市民」の概念を通じて、韓国をはじめとした各国家が、市民である個人に要求すること、誕生と同時に法を通じて国家と個人が結ばれる契約を示している。
5)Kyoto Experimentで作品を発表するために行ったExchangeについて
2017年横浜で発表したお互いの創作活動を見て、我々の共通したテーマを植民時代から始まった西洋式近代化、及び現代化をもとに整理した。キーワードだけでもとても膨大だったために、一旦インターネット上でタイムフレームを作り共有した。植民地時代から、各々3ヶ国の本格的な近代化が始まるまで、世界史の中で起こった重要事件と、3ヶ国の中で起こった重要事件、及び条約などを要約して共有した。また、それに関した質問には、それぞれがメールで答えた。
もちろん、ベルリン-福岡を行き来する夏子、コペンハーゲン-チンジュを行き来する私、コロンボ-全世界を巡りながら活動をするヴェヌーリが、お互いの時間を合わせることは簡単ではなかった。進まない過程にじっと耐えた。私は個人的な事情(出産と育児)があって、2018年の福岡でのリサーチと、マレーシアと京都での発表には参加出来なかった。同僚たちにストレスを与える程の状況であったが、夏子とヴェヌーリはそれを悠然と受け止めて理解してくれた。
2018年夏、彼らが福岡で創作活動を行った時、日々、何について議論しているのかを連絡してもらっていたが、私は彼らに返事するので精いっぱいだった。
2017年横浜で発表した3つの作品は、偶然にも全て違う種類の「契約」について取り扱っていた。メッセンジャーでの会話中、3人が思い浮かべた各々違う種類の「契約」が植民地時代に国家と国家の間の「条約」に集中した。夏子の提案に沿って日本が西洋の国家と結んだ条約、韓国が日本と結んだ契約、スリランカがイギリスと結んだ条約の文書内容を、個人と個人が結ぶ契約(例えば甲と乙)に変化させて、どう違うのかを比較した。
このような過程を通じて私は(当時、修士論文で「イギリス植民政策に於いてマレーシアがイスラムと慣習法をどのように取り扱っているのか」について書いていた為)イギリスの植民条約がスリランカとマレーシアとではどのように違うのか、また日本と韓国の条約とはどのように違うのかを比較することが出来た。
韓国の歴史の授業では、主に日本との差別条約を学んだ。日本が西洋と結んでいた差別条約を、韓国にそのまま適用したと言う夏子の言葉を聞いた時、以前は「日本の韓国植民統治はどのようなもので、国内にどんな変化をもたらしたのか」と考えていたが、「日本はなぜこのような植民統治をすることになったのか。なぜ西洋に従わなければならなかったのか」という夏子の考えに共感し始めた。日本対韓国の構図で西洋式近代化、及び現代化対日本、韓国、スリランカ他、アジアのいくつかの地域を同じく苦悩する地帯になった。
6)Kyoto Experimentを見て感じたこと
2018年夏、夏子とヴェヌーリは福岡で「実験」を作った。彼らは2017年福岡で私が発表した「アンケート」の活動形式にピンと来たと言った。それは過去の夏子とヴェヌーリの創作活動がパフォーマーや創作者が国内、国際的なシステムの中で知覚する境界と差別を扱い、「実験」では観客自らが直接参加者として「境界」と「差別」を知覚するものだった。その実験の大きな枠は、時間枠が見せた西洋列強の不平等契約と植民統治方式の主要法則(後期植民主義以降には、地域の政治権力者に代替わりをさせて来た法則)を受け入れてきたことのようだった。我々が西洋近代化、及び現代化の特性を、言語で明らかに定義することはかなり難しかった。しかしその特性に由来した「法則」で作られたゲームが、西洋近代化、及び現代化の特性を体で考えることになるのか?
京都での実験以降、我々は質問と議論を繰り返した。それは「この実験が追求するものが何なのか」、「韓国とスリランカでも行う必要があるのか」、「特に韓国でするとすれば、韓国と日本とのデリケートな関係をどう考慮しなければならないか」、「この実験が心理学者たちの実験とはどのように違うのか」、「この実験が持っている西洋近代化、及び現代化に由来した枠が、西洋の哲学者たちが定義した西欧モダニズムの特性とはどのように違うのか」などであった。
7)韓国でのレジデンスについて
ワークショップとショーイングについて
夏子は「実験」のフィードバックを共有しながら、その実験に自身も一緒に参加している間、日本の人たちのある意識的な態度の変化を感じたと言った。この実験が持つ限界を考慮したにもかかわらず、これを違う地域でやってみて違う反応を得る事を、参加した全員が共有することが重要だと判断した。しかし、この実験が公演ではないために「参加者の身体的活動」を要求するゲーム形式のショーケースという事を明確にし、実験+ワークショップ+参加者との対話を全て含んだ実験過程の中にある創作活動と認識して紹介した。
約10年余りの間、夏子は自身の体の中をまるで解剖学のように、意識的に深く観察した時に現れる体の反応と動きをさらけ出す活動をしてきた。彼女の創作メソッドはこの実験の中で、参加者が自身の状態、感情だけでなく、参加している「実験」自体を観察しながら、その経験を各自の生活と、属している社会の風景と重ねてみることにまで拡大された。この実験の枠自体についての曖昧さは様々に指摘されたが、参加者とのフィードバックを通じて、身体で感じたり考える事があるということを確認した。参加者の経験とフィードバックが実験の一部分になり、この実験は誰でも自由にやってみることの出来る開かれたリソースになった。我々はこの実験に参加したある誰かが、また違った地域に行って実験を行ってくれることを願っていた。まるでこのプロジェクトの名前「フローティングボトル」のように、夏子のメモを、海を越えた誰かが引き継いでくれることを。
韓国で「ワークショップ」と「実験」を行うことによって、韓国と日本の歴史的関係について再び言及されるようになった。韓国では今まで植民地の歴史について国民の関心と意識が高い反面、植民統治を経験した地域や民族間で、比較する観点を持つ機会はまれだった。例えば韓国人たちは心情的に日本の植民支配をドイツのホロコーストと比較するが、どんな西洋人も植民統治をホロコーストと比べることはない。イギリスの植民統治方式は、インド、スリランカそして東インドなど、それぞれが違っており、ホロコースト或いは西洋ヨーロッパのアフリカ奴隷制度とも違う。
この違いは当時西洋ヨーロッパが世界を主権国家、中間の主権国家、主権がない民族に分けて接近した事実もあらわにしたが、更に子細な比較研究はなかった(と、誰かは手遅れだと言いもした)。植民統治を受けた国家ではその歴史を勉強するが、実際に植民統治を行った国家では、その歴史を公的な教育で取り扱わなければならない重要な歴史だとは思わなかった。その為植民支配、植民統治、植民事業などという、国が海外で行った経済的事業として簡単に紹介されたりした。このような整理されていない部分が植民時代以降、新資本的植民時代へ進めていくようにしたのではないか。3人が知っているそれぞれの植民支配の歴史についての対話は、様々な考えを引き起こし、現在も定まっていない。
韓国語翻訳 北村加奈子