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Kyoto Experimentとソウルで行われた『点にダイブする』の両方に参加してくださったSangsook Kimさんが美しい随筆のような感想を書いてくださいました。

2018年と2019年に、京都とソウルで行われた<フローティングボトルfloating bottle vol.2  点にダイブする>について(公演、ワークショップ、ショーケースの形態で)二つの都市を行き来しながら、時差と地理的な空間の差がありながらも経験したことを、思い出しながら記録してみようと思う。思い出そうとするこの過程は、楽しいものではない。<点にダイブする>は実験であり、個人の身体に内在化された、ある個人の行動規範について考察し、検証するための装置となっていた。また、この過去の実験、或いは私自身の反応は依然として観客であり参加者だった私の中で、ずっと持続していた。なぜならば 、時間的かつ空間的に‘近代的国家’という領域の中で行われる指示事項や体制の中で生きているからだ。また、2019年は‘時局’という言葉を最も意識しなければならなかった年でもあった。‘切断された過去’の時間概念を基盤にする西洋的国家体制としての韓国は、現在でも相変わらず個人の身体と意識の内と外から行為主体としてあり、一言ではっきりと言えない感情を生む。うまく整理出来ないが、実験とそれに関連したいくつかの断片的な記憶と、本、歌の誤読についても書いてみる。

 

●ボトル

幼い頃、近所で遊んでいた記憶を思い浮かべる。きっちりと決まった約束の時間がなくても、三々五々あちこちから集まりいつの間にか始まった遊びは、日が暮れるまで続いた。母親の「ご飯よ、帰って来なさい」と言う声が恨めしく、「また明日」と言う約束さえ必要なく、自然に始まった時間を忘れる遊び。ルールは明確で反復的な無限の体験。「一緒に」という感傷的な概念、「一つの」という共同体的な概念、また「社会や個人」という概念の認識がなくても、可能だった体系やシステム。昔から反復され伝達された歌や遊びは、伝統的だとか近代的という枠ではくくれない非定型のフレーズ(phrase)で変形され、瓶に入れられたまま流れる。漂流する瓶に込めた呪文は、新しい行為者によって伝達され、活性化され、非時間的体験を作り出す。石ころや空き缶と同様の物事と、私以外の友人たちと共に、共通の空間を作り出したことについて懐かしく眺めることにする。

 

●ワークショップ

-ソウルでのワークショップで「西洋化」や「近代化/現代化」のキーワードで思い浮かぶことを書いてみようとした時、私が書いたことは概念と形式を統合しようとするときに起きる一致と不一致だった。

-夏子の身体メソッドを共有するワークショップでは、体のどこに意識を向けるかを心の中で決めて、そこを直接的な体の部位で称さずに違う言語やイメージで翻訳、または視覚化する作業を行った。そのあと、二人組になって自分ではなくパートナーの声でその言葉を自分に向けて投げかけてもらい、その音声を受け取りながら自分の体に起こる変化と感覚を観察することになった。私が観察できたことは、聞こえた言葉と音が指示する体の場所はもちろん反応するが、それ以外の予想もつかなかった体の部分で反応が起こったという点だ。例えば脈拍が早くなるとか、眼球の動き、痙攣や発作にも似た動きが体に起こった。私は、言語が体のある部分に指示するのを知っていて、それだけに集中しようとしても、それ以外の部分まで私の意志とは関係なく動き出したという事を認識した。

 

●劇場と実験室

京都での観劇はとても不快だったが、ゲームに参加する前から「実験」という概念を通じて観客自ら被験者になり、観察しようという提案は問題になった。「劇場」も「公演」も「作家」も「観覧者」も「記憶」も・・・。 正確に言おうとするなら、作品と関連した現代的な確かな概念の、積極的な修行が引き起こす衝突と暴力性。乱暴に言えば「遊び」を匿名の集団と一緒にすることだと言えるが、劇場と言う場所に類似の実験が折り重なることによって、観客としてこれに参加するという事は、多少面倒な事だった。ワークショップ、或いはゲームの形態で進行されるような公演だったので、一般的な観客という立場を、公演が始まると同時に変えなければならなかった。観劇のために私が払ったお金に相応する経験のためには、普通の観客ではなく参加者または被験者にならなくてはならなかった。または作家の作品の一部になり「観察」と「記録」の対象にならなければならなかった。観客参加型の公演が与える受動的な経験に参加したくないという気持ちと、誰かに見られたくないのに見られてしまう存在にならなければならなかった。この作業を観覧するためには、作家が提案する状況に納得しなければならなかった。ゲームはいつでもやめる事が出来、怒って劇場を出ることも可能だったが、そう出来ずに参加することになった。少し窮屈な経験でも現代公演芸術の消費者と観客としての役割を忠実に行うため、ルールを決めて指示事項が追加され、記録をし、行為をすることが構成されており、選択することは個人の自発的な選択に委ねられていて、任意の集団の中でそれは行われた。

 

●浄化(purification)と媒介(mediation)の場所

西洋的概念の劇場は見るための場所と言える。科学者の実験室は積極的な「観察」を行う場所であり、自然と社会が入り乱れた所で、客観性、合理性、事実などを抽出する場でもある。また、劇場は実験室と全く関係ないようだが、客観性や合理性とは対比されるような、普遍的な人間たちの主観的な感情や欲望などを浄化し、一つに連結させる場所であり、機械でもある。相いれない様なこの2種類の性質は、各々劇場と実験室で、浄化(分離)/媒介(連結)する過程を経て、集合的や共通的な認識を生産する。その場合2つの場所は位相的に同じ空間でもある。

*ブルーノ・ラトゥールは『私達は決して現代人だったことはない』で浄化と翻訳の概念として近代性について説明したが、私は彼とは違う意見だ。

 

●「むくげの花が咲きました」と「トーラー(Torah)」(日本語で「だるまさんがころんだ」と同じ遊びの言葉)

「むくげの花が咲きました」という言葉を繰り返しながら、何も考えず友達と一緒に歌を歌いながらやった幼い頃の遊びは、韓国だけではなく、日本でも似たようなルールで行われていた(だるまさんが転んだ)。むくげの花は韓国と愛国心を象徴する花の名前であり、一時、核兵器と北朝鮮を素材にした同盟の言葉になったタイトルの小説が、人気を集めもした。

 

民族主義や国家主義、愛国心などを思い浮かべさせる言葉が繰り返し歌われるこのゲームを子供の頃に韓国でおこなった私が、大人になってから日本で、他の外国人である日本人と一緒に行った。多少ぎこちなくもあったが、しばらくは楽しく遊ぶことが出来た。しかしこのゲームの後、他の提案がされた。<点にダイブする>の中ではこの遊びを、西洋化以前の非西洋国家で行われていた「遊び」のプロトタイプ(原型)やアーキタイプ(元型)で想定されていた。西洋的な現代化を可能にした形式、例えば同意、宣誓、契約、数量化、代表選出、評価などが遊びのルールに追加され、それによる変化した値の差を、経験し観察しようという提案だった。しかしこの要素案には「近代的」とか「西洋的」だとは言えない、古代から今まで行われて来たゲームの共通した特徴が含まれている。変形したルールは「西洋的主体性」や「自由」が自分自身にだけ属しているというように、自らを客観視して作る主体化を受け入れる事が出来るようにするやり方や、アルゴリズムが加える実力行使を再認識することになる。まるで「目には目を、歯には歯を」のような恨みのこもったやり方として啓蒙的に我々自身と他人を対照化することになる。

 

チンジュだけの暗号名であり、ある日本人夫婦が祭祀をあげていた猫の名前「トーラー」

「その名前を3回唱えるとすべての事が始められるんだ」と、吟じるクリス・マルケルの映画『サン・ソレイユ』のナレーションを思い出す。一方、トーラーは法律を意味する言葉として、旧約聖書の最初の5編を意味する。

 

●分割の感覚

日本での最初の実験では終わりまで参加出来ず、早い内に後ろから眺めることにした。後ろには伝統的だったり、現代的な芸能器具や道具(楽器、ラジオ、雑誌、レコード、仮面、伝統衣装、本、おやつ等)がごちゃごちゃと置いてあり、その反対側には大変そうに、或いは楽しそうに最後まで最善を尽くしている参加者たちがいた。道具は観客たちに他の使い方をするように誘い、誘惑的に置かれていて、私はその間で他の参加者たちを眺めていた。そのことを「観察」と言えば、とても残忍な言い方になってしまう。

 

公演が終わった後、ある日本人の観客との会話から、正確ではないが「すぐにこのゲームを辞められる」と言ったことが印象的で、何ヶ月か後、韓国で今回は違う選択をするかもしれない、あるいはもうちょっと長くゲームを持続することが出来るかもしれないと期待しながら参加した。大変でぎこちなくても、すぐにやめないでいられるだろうか。与えられた体制の中で変化する気持ちをじっくりと眺めながら、行為者として新しい選択と、潜在する可能性を期待しながら冷たい科学ではなく、科学する心のように眺める事が出来るだろうか。

 

韓国で、再び参加してみても相変わらず苦痛だった。他の選択をすることも出来たが、全く同じ選択をした。もちろん、この苦痛の感覚には既に慣れていた。苦痛はルールや個人、集団、社会、対象、観察といった分割できない概念を分割しているような切断が続いたり、分割できなかったり、線引きが不可能な、また線引きによって続く事への不一致の感覚である。一致できない主体化の過程はとても辛かった。ジョルジョ・アガンベンは「すべての装置は主体化の過程を内包し、この過程がなければ装置は統治装置として機能することができず、ただ暴力行為になってしまう」と言った。私の体が西洋的概念によって、完全に属されたり、統治されておらず、主体化がなされなかったため、知覚して認識することによっておこる苦痛だと言ってもいいのではないか。夏子の<15年の実験履歴>を光州アジア芸術劇場で見た時、最後に彼女が吐き出した音、または歌で韓国の伝統芸術である「パンソリ」を思い出した。 <フローティングボトル>とは違う活動だったが、2つの活動に共有している「苦痛」の感覚の共有は似ていた。時代や地理的、文化的な境界が違うと言っても、人類が苦痛に反応する方式で、芸術、芸能は多時間的な経路を辿りながら、細く、かすかな結び目で連結され交差しているようだ。ショーケース前に翻訳アプリでこう伝えた。「苦痛の感覚を共有してくれてありがとうございます」と。

 

●遊び

ジョルジョ・アガンベンは『装置(ディスポジティフ)とは何か』で、儀礼や犠牲定義によって神聖なものと考えられていたことや活動を、共通に使用することが出来るように取り戻すことを「世俗化」という概念で説明する。世俗化の興味深い例として「遊び」を取り上げながら我々に親しみのある遊びの大部分は、古代宗教に由来している。子供たちが行う全ての遊びは、本来、結婚儀礼に由来しており、全てのボール遊びは、太陽を持つため神たちが繰り広げた争いを手本にしたものだと言う。<点にダイブする>は呪術化された近代の儀式と体の使い方について、もう一度「世俗化/神聖化」することが出来るのか、彼の言葉のように子供たちが経済、法、戦争、領域に由来したものを持って遊ぶことが出来るかについて提案する活動だった。一方、ブルーノ・ラトゥールは全ての本質が自身に意味を付与する媒介者、代理人、翻訳家たちによって「翻訳」される時、近代性は失われてしまうこともあると語った。

​韓国語翻訳 北村加奈子

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