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個々人の私的な身体感覚のディテールにこだわってきた手塚は、最近、それをマクロな水準で条件付ける社会構造、あるいは地域の共同体や近代国家の機能をも視野に入れた未踏の領域へ移行している。「民俗芸能調査クラブ」「アジア・インタラクティヴ・リサーチ」といったプロジェクトを通して、日本やアジア各地で前近代から続く民俗芸能を“何らかの危機的状況(飢餓や政治的抑圧)への個々人の反応の形式が歴史的に累積してきたもの”と独自に解釈した上で、ポスト近代における我々にとって「動く」ことはいかにして可能かを再考するのである。(武藤大祐 ユリイカ 2013 01より抜粋)
他なるものの表現媒体として支配されることをやめて、身体それ自体が語り出す。そんな手塚の作品世界の可能性について、例えば二十世紀ドイツの哲学者ベンヤミンがシュルレアリスムの試みに期待した身体の可能性と類似しているとしてみよう。ベンヤミンはシュルレアリストたちの試みのなかに、「自我」などという統一の契機を克服して、「ひとつの行動自体がイメージを自分のなかから現出させ、それ自体イメージであり、イメージを自分のなかに巻き込んで食らうところではどこでも、(中略)イメージの空間が開ける」(517)、そんな革命的な瞬間を見た。身体空間とも言い換えられる「この空間では、政治的唯物論と肉体被造物とが、内面的人間とか魂とか個人とかその他それらに属する、普通なら私たちが非難したくなるものを、弁証法的な公正さに従ってあらゆる部分をばらばらに引き裂いたうえで、共有することになるのである」(517)。(木村覚 「解剖のダンス-手塚夏子の作品世界」より抜粋)
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